『サウンド・オブ・メタル 〜聞こえるということ〜』(2020年 ダリウス・マーダー監督)
JUGEMテーマ:映画
『サウンド・オブ・メタル』を劇場に観に行って震えたので感想を書きます。
〜あらすじ〜 ※ネタバレあり
デュオ編成の轟音バンドのドラマーである主人公は、ある日突然の耳鳴りに襲われ、難聴となる。主人公は、バンドメイトでもある恋人とのRVでの生活も、バンドのツアー生活も、これまで通り続けようと無理を試みる。しかし演奏はおろか、会話も不可能なほどに彼の聴力は失われていた。
元薬物中毒者の主人公は元依存者の集まるデフ(ろう者)・コミュニティを紹介されるが、そこで暮らすためには、ドラマーとしての生活、恋人との生活を一度あきらめなければならない。葛藤しつつも再会を誓い恋人と別れる主人公。
コミュニティのリーダーに出された「課題」や、ろう者である子供たちとのかかわりを経て、主人公は少しずつコミュニティでの生活になじんでいく。
しかし、元の生活、音のある世界をあきらめきれない主人公は、ドラムセットやRVも含む全財産を手放して人工内耳の手術を受ける。手術後彼が手に入れた音は、ノイズまみれの「サウンド・オブ・メタル」だった。
手術を受けたことで、「難聴は障害ではない」という理念を持つコミュニティにもいられなくなった主人公は、自分を待つ恋人のもとへ向かう。愛を確かめ合う二人だったが、恋人はかつて不仲だった父親との関係を修復し、今では落ち着いた暮らしを手に入れていた。元のツアー生活に戻ることを話し合うも、もう戻れないことを悟る二人。
翌朝、誰にも告げずに恋人のもとを去る主人公。街中は相変わらずノイズで溢れてかえっている。教会の前のベンチに座ると、教会の鐘の音が不快な音として頭に鳴り響く。主人公が人工内耳の機器を取り外すと、あたりを包むのは静寂。静けさの中、張りつめていた主人公の表情に穏やかさが宿る。
〜感想〜
素晴らしかった…!!!
何かを喪失することは深い悲しみや怒りや戸惑いを生むが、わたしたちはそれをどうやって受け入れていく(受け入れていかざるを得ない)のだろう? この映画で主人公が失ったのは聴覚だったが、この映画で喚起される感情は「何か」を失ったときの悲しみや切なさにも重なるし、この映画は、もう一歩進んで「君は前を向けるはずだ……」みたいな励ましを示唆してくれたように思う。それも優しく、穏やかに。最後に静かに拳を握ることができる映画だ。イイ……。
■いろんなサウンド・オブ・メタル
「サウンド・オブ・メタル」の解釈として、いくつかのレビューを拝見したところ、それは人工内耳を通して聞く音のことというのが一般的? なようだが、ふたつの「金属音(サウンド・オブ・メタル)」をきっかけに主人公・ルーベンが「聞こえないということ」を(完全でなくとも)受け入れた、あるいはそれに何かを見出したと受け取れるシーンが特に印象的だった。
ひとつめは滑り台の音。ルーベンとろう者の少年とが公園の金属製の滑り台に座り、その滑り台を叩いてふたりがコミュニケーションをとるシーンがある。ただ滑り台を叩いてリズム(振動)を伝え合うだけで、セリフも何もないが、この出来事は、ドラマーであるルーベンに少なからず癒しをもたらしたのではないかと想像する(自分も音楽好き、ドラマーのはしくれなので想像に難くない)。ストーリー上でも、このシーンの後、彼はなんだか穏やかになってコミュニティになじんでいったはずだ。
ふたつめはラストの鐘の音。天然の聴力を持つ者には優しい音に聞こえる鐘の音も、人工内耳を通して聞くと「やめてくれ」レベルの騒音。この音に耐えかねて人工内耳の機能をオフにしたとき、ルーベンは自分が何を「手に入れた」のかを自覚したのだと思う。コミュニティのリーダー・ジョーはルーベンに「静寂の世界は君を決して拒絶することはない」と言っていた。ルーベンと共に戸惑い疲れ果てていた観客の耳もラストでそれを実感し、ルーベンと共に穏やかな気持ちになる。
■音響がすごい
ラストの主人公の感覚を観客が追(同時?)体験できるのも、この映画の音響効果あってこそだろう。これは賞獲る。
「ある日突然耳が聞こえなくなったら?」「難聴の状態でドラムを叩くと?」「人工内耳を通して聞こえる音って?」…など、聴力にまつわる各種の状況を疑似体験させてくれる音響効果は本当にすごい。劇場の音響で見ること(聴くこと?)が出来てよかった。
映画を見終わった後には、耳にするすべての音が新鮮に感じた。
■演技がすごい
主人公・ルーベンを演じたリズ・アーメッドの演技が本当に素晴らしい。戸惑いや怒り、悲しみや諦観など、真に迫った演技で胸に突き刺さる。荒々しく感情を爆発させる姿も多い中、ラストであんな表情を見せるとは……。
観客がルーベンと共に困難な状況を生きた感覚になれるのは、音響効果とともに、彼の演技あってこそのことだろうなあ。
■さらば恋人
デフ・コミュニティのリーダー・ジョーとの面談(?)で、ルーベンが元薬物中毒者であることが明かされるが、薬物を絶ったきっかけは恋人・ルーとの出会いにあることが暗に示される。ルーはルーで腕がイカ焼き状態で寝起きにそれをひっかく癖をルーベンに止められていたりする。おそらくふたりは共依存的な関係だったのだろう。そんな二人が再会を約束しつつも別れるシーンは哀切を極める。
しかし手術を終えたルーベンとルーが再会し(※ルーが身を寄せた父の家はパリ。実はお嬢様だったルー…)、また元の生活に戻ろうなんて話をしつつも「アッ、これはもう元には戻らないほうがいいな」と悟るシーンが大変切なかった。ルーのリスカ跡、冒頭の「ひっかいちゃだめだよ」からこのシーンにつながって「アーーー…」ってなるのが本当にもう……。陳腐な感想になるが、いったん離れ離れになったことで、ルーベンはルーの(ルーは自分自身の)「心の声」というやつを聞くことが出来たのかもしれない……。ウ!
■Surfbortが出てた!
「このTシャツは50ドルに値上げね」(Tシャツに唾を吐く)「あたしの唾付きTシャツ、どう?」
……たしかこのようなセリフで物販シーンにチラッと出ていたのはGUCCIのモデルにもなったSurfbortのボーカル・ダニ・ミラー(とたぶんドラマー)だッ! 油断していたのでギョッとしつつもうれしくなった(ちょうどこのシーンの直後、ルーベンは耳鳴りに襲われ難聴を発症するのだが…)。そのTシャツ、買います……。
■映画はAmazon prime videoでも配信中です。
劇場公開に先立ってprime videoでの配信がされていたらしい(知りませんでした)。劇場の音響も素晴らしかったが、多くの方が言及されている通り、ヘッドホンやイヤホンをつけて視聴するのもすごそうだ。
PUP / If This Tour Doesn't Kill You, I Will ~ DVP
JUGEMテーマ:洋楽歌詞・和訳
カナダはトロントのバンド、PUP。めちゃくちゃいい!! と、おそらく世間から数年遅れてどはまりしました。2ndアルバム『The Dream Is Over (2016)』のオープニングを飾るこの2曲はCDでも連続して演奏されているため、初めは1曲かと思っていました。毎日聴いて最終的にはLP盤を買いました。手に入ったのはカナダ盤ではなくUS盤でしたが盤面がクリアでしゃれてました。
動画はおそらく3rdアルバム『Morbid Stuff (2019)』リリースの頃にトロントで演奏されたもの。歌いだしから観客大合唱でボーカルのStefan Babcockさんも驚いているようです。わたしも合唱参加したいです。観客のダイブが平和でなんかかわいい。
『If This Tour Doesn't Kill You, I Will』は、ツアー中のストレスがメンバーに向かっている様子の歌らしいです。「でも友情賛歌でもある」……というようなコメントをどこかで読んだような聞いたような。記憶違いだったら申し訳ないが、でも、なんかわかるぞ。ふつふつと滾るイラつき……そして爆発……! みたいな構成が大変好きです。
そしてなだれ込むように『DVP』。こちらは酒問題の歌。裏声コーラスと疾走感ある演奏がたまらない。こんな気持ちになる時はきっと誰でもある。わたしはこのような音楽があるおかげで、鬱屈とした気持ちも発散できる。よかった〜。助かる〜。
続きに歌詞拙訳載せます。
The Rolling Stones (feat. Jimmy Page) / Scarlet
JUGEMテーマ:洋楽歌詞・和訳
ストーンズとジミー・ペイジ(とリック・グレッチ)のコラボ音源が蔵出しされました! ジミー・ペイジが参加したからにはどんなジャムセッション曲なのやら…と思っていたら、シンプルに「ウッワ、いい曲!」でした。
ジミー・ペイジの娘さんがスカーレットという名前なので、そこから来ているのかな? という話ですが、さっそく歌詞に目を通してみたところ、「父娘ソングとして聴くとまーたグッとくるぜ〜!」と思いました。(もちろん主人公とスカーレットがどんな関係かには想像の余地がありますが!)
そしてこの曲を聴いていたら、『ゲット・ラウド』(デイビス・グッゲンハイム監督。2009年。日本公開は2011年)という映画で、ジャック・ホワイトに「歌は歌わないんですか?」と問われたジミー・ペイジが「いいや、私は歌わないんだ…」とほほ笑んでいたことを思い出しました。
私は、「歌を歌うという行為は選ばれし者にのみ許された行為」という思想があり(もちろん、「そんなはずはない」という気持ちがあるものの、歌の入った音楽を聴くときに「歌声が猛烈に胸に迫ってくるか否か」というような観点から冷酷に再生を停止してしまう/その場を立ち去ってしまうことがあるのもまた事実なのである…)、そのため自分も、ジミー・ペイジと同じと言うにはおこがましいが、「(何かを伝えるために/自分の表現手段として)歌おう!」と強く思ったことはほぼない(自宅で小唄をくちずさむことはあっても)。しかし、歌を愛する者として、自分も「歌」に準ずる何かで自分を表現したいとはずっと思い続けている。ような気がする。「歌わない」人間はそんな気持ちが強いのではないだろうか。だって、ジミー・ペイジのギターは! いつも! 歌っている! この曲でも!!! ウオーーーッ、燃えるぜ!!!
とかなんとか思いました。
あとは今はもう本当に、「ウッワ、いい曲!」という感想以外あまり語れない…だってほんとシンプルにいい曲だから…
続きに歌詞の拙訳を載せます。いい曲…
Netflix『このサイテーな世界の終わり』 (The End of the F***ing World) および The Spencer Davis Group / Keep On Running
JUGEMテーマ:洋楽歌詞・和訳
↑のタグをつけましたがメインはドラマの感想です。
〜作品情報〜
このサイテーな世界の終わり(原題:The End of the F***ing World)
シーズン1:2017年。Jonathan Entwistle、Lucy Tcherniak監督。
シーズン2:2018年。Lucy Forbes、Destiny Ekaragha監督。
シーズン1、2ともにCharlie Covell脚本。
〜あらすじ〜
サイコパスを自任する少年ジェームズは破天荒な少女アリッサに出会う。小動物殺しを経て次なる獲物は人間、と企んでいたジェームズはアリッサを殺すため彼女と付き合い始める。
家庭に問題を抱えるアリッサはジェームズを家出に誘い、彼女を狙うジェームズはそれに乗っかる。アリッサと行動を共にするうち、ジェームズには感情が芽生え始め……。
みたいな一癖あるボーイ・ミーツ・ガールもの。
〜感想〜
音楽が最高のドラマだった。グレアム・コクソンすげえ。
1話20分ほどなのでシーズンごと3時間ほどでぶっ通し視聴も可能。進行がスローだという意見もあるようだが自分はテンポが良いと感じた。音楽のおかげか。
S2のボニーというキャラクターがとても好き。ジェームズとアリッサに復讐を企てる恐ろしい役回り(しかもS1のジェームズよりもサイコパス度が高そう)なのに、社会性が希薄すぎるためかどこか間抜けな行動が多く憎めないような存在。完全にわたしの癖(へき)ですが、歯列矯正とかしていてほしかったなあ(歯列矯正をしている人を不気味に思っているわけでは決してない、かつて私もしていた、完全にビジュアルに関係した癖の話である)。
S1はジェームズがアリッサと出会い何かを感じられるようになる物語だったと思う。
対してS2ではS1の事件によって傷を負ったアリッサ、それから復讐者ボニーが何かを感じられるようになる物語だったのでは。
つまり、何も感じられない世界="The Fxxxing World"という解釈でいる。それぞれがどんなふうにしてサイテーな世界を終わらせたかは是非本編でご確認いただきたい。
〜原作〜
ドラマを見終わって原作本も読んだが、大事なエッセンスはすべて原作通りだった("but she is mine (my propector)"や"what people mean each other"といった震えるセリフなど)。行間の多い原作をここまでポップなドラマにしたのはすごい。しかし原作の終わり方も結構気に入っている。ドラマ版のアリッサはあんなことしないと思う。
(作者: Charles Forsman / 2011-2012の作品。同じくNetflix配信中のノット・オーケーもこの作者原作らしいので観てみようかなあ)
<おまけ:ドラマとの比較>
- 舞台がアメリカ
- 会話が少ない(漫画とドラマの性質の違いか)
- 漫画では回によってジェームズ視点とアリッサ視点で物語が進む(ドラマ版でそれぞれの一人称語りが目まぐるしく行われるのはこの影響かもしれない)
- 漫画のジェームズは手を火傷しているのではなく人差し指と中指がない(フライヤーではなく生ごみ処理機に手を突っ込んだため)
- 物語の時系列(例:ジェームズがおっさんにいたずらされかけるのが漫画だと家出してから結構たってから)
- 漫画ではボニーに当たるキャラクターは事件直後から二人を追う
- 漫画には二人組の刑事はいない(レズビアン関係を匂わせるの、Netflixっぽいなと思った。S2のお姉さんも)
- 漫画ではアリッサの家庭は詳しく描かれていない
- 漫画ではジェームズの父親はほぼ出てこない(ドラマ版のお父さん、いいキャラクターだった)
- S2のエピソードは全編ドラマオリジナルと言っていいと思う。ドラマ版S2があって私は救われた気分。(余談ながら、S1~2にわたって脚本を担当しているCharlie Covell氏は女性)
など
ということで、続きにS1で一番楽しい(すぐ終わるけど)といっても過言ではないドライブシーンのあの曲の歌詞和訳を載せます。
グレアム・コクソンのサウンドトラックも本当に本当に良かったので今後訳すかもしれない。
Little Changes / Frank Turner
JUGEMテーマ:洋楽歌詞・和訳
今回はフランク・ターナーの最新アルバム"Be More Kind"から一曲(今回もサブウェイレディオでシャザムりました)。
フランク・ターナーさんはロンドン・オリンピック開会式にも出ていたとのことですが、恥ずかしながら初めて知りました。
詳しくはBARKS記事で:https://www.barks.jp/news/?id=1000089886
この曲が耳に留まったのは冒頭から繰り返されるグロッケンみたいな音と「オオッオッオ〜」です。サウンド的にポップだったのでポップの人だと思ったらパンクをバックグラウンドに持つフォークの人(という分類も本当はどうでもいいのですが)でアツい曲をたくさん歌っていたのでむしろそこが気に入ってしまったのだった。
上記の記事にある「ジョー・ストラマーがヒーローだった」という発言を読み、手のひらを拳の側面でポンしました。
何かがうまくいかないときガラッとスパッと一気に大規模で抜本的な変化を求めてしまうこともありますが、ノンノン、"Little changes。Little changesでエエんやで"というのがおそらくメインのメッセージ。
個人的なことながら今年30代になり、だんだん己の中で暴れていた焦燥感的な"アレ"が蒸発していく感覚を顕著に感じ、それによって逆に"Little changes"が実践できそうな気がしているこの頃。と同時に10代からここにいた"アレ"はなんだったんだろう…と考えている。どこかに消えてなくなっていってしまうのか、中に溶けていっただけなのか分からないが"アレ"のことは大事に思っている。でもたぶんこれからは"アレ"じゃなくて"コレ"になっていくんだと思う、”London Calling"というジョー・ストラマーの伝記映画で、クラッシュ末期に街中でライブのビラ配りをしていたジョーみたいな”コレ"。ていうかこの映画見たときギリ10代だったかもしれない、"アレ"のころからビラ配りするジョーの姿がずーっとずっと忘れられないでいたのは"コレ"のためだったのか……?(天の声:Little changes。Little changesでエエんやで。)
ではどうぞ。
(続きに拙訳)